ララバイ感想
8年ぶりのララバイ観劇
上演時間3時間の休憩あり、歴史と見せかけたファンタジー
冒頭のそばうどん論争からぼろなきという(感情の思い出しのため)以前の舞台とちゃんと同じところは同じでもレクイエムを経て全然違うところは違うとてもいい舞台でした。
今回のバージョンのレクイエムもみたいと思いました。
時系列はレクイエム→ララバイだけれど上演順はララバイ→レクイエムです。
前説がアンサンブルさんなのもとてもよかった、向上みたいな感じで「よき戦であったなら拍手を」
新人門番のごろーちゃんはしょっぱなから遅刻して先輩ずに責められる。(のちのちゃちゃ秀吉とまさみ左近)秀吉が無職!一生下っ端!!とかいってるのが地味に面白かった。配役分かってるからこそな笑いでした。
OPの傘にうつる名前はさすがに目視しきれなかった!
メインテーマは
「戦いの終わらせ方」
「自分の道の選び方」
そして裏テーマに家族。
兄弟と親、兄と妹。
重くて暗くて、その中でお互いを光と感じている。
みたいな家族
私はとってもキャラクタとして真遊が好きなのですが、
前回の真遊は男かも女かもわからない、自分の主のためには泥をすすっても這い上がる感情殺し系でとても好きでした。
今回の真遊は女として主を愛して、女としてごろーちゃんを愛してた。二面性を持つ女性の描き方としてとても良かったんですよ。
男女の関係をとても好みに描く脚本家まさみさん・・・。
たしかにそこにあった柳町の日々は彼女に真遊としての人生を与えて以前の名前は奪われかけたけれど、でもやっぱり彼の呪縛からは逃れられずに、眠りについた。って解釈をしたいです。
レクイエムの方どういう感じだっけと見直したい気持ち。
以前の「私から主を奪うな」の先にはごろーちゃんの母を見ていたし、その目は母親と同じ瞳でつまり主と同じ瞳という意味だと思っていたんだけれど
今回の「私から主を奪うな」って台詞は主のいる自分の人生と柳町の真遊の人生の天秤表現と感じました。
そこからの最後のごろーちゃんの台詞がもう私には来世でもまた会いたいにしか聞こえなかった。
OPのじゃれるごろーちゃん、真遊、ハルの三人は家族であってほしいという願いです。
名前を呼び合う話
ごろーちゃんはまた会いたいと思う相手にはごろーちゃんと名乗るという台詞があるんだけれど、これが本当に作中で生き生きとする台詞で、それを聞いたのはガラシャだけなんだけれど、それを光栄としその名前で呼んでくれるし、真遊に告げる名前もごろーという・・・。名前だけでこんなに色々表現できるとはって感銘する。
だからといってもうひとつの五右衛門も大切な自分を示す名前なんだよ。血と戦いとそれを選ばない自分の生き方を示す名前
ハルはだからこそちゃんと自分の名前をごろーちゃんに伝えるし、それに五右衛門は答えた。
自分の生き方をこの戦国にみせつけて生きる名前
また出会って、一緒に生きるための名前
効果的に際立つ名前の使い方すぎる。
秀吉が、信長を継いでいてやばかった。
初演ららばいでは感じなかったすごみ、レクイエムの信長を見てきた秀吉であの人に対しての感情がすごかった。
陽気と壮絶の落差と切り替えがはやすぎて、ちゃちゃさんのいろんな役見てるけれど最近一層演技がすごい。
生の感覚で肌に感じる、役者のやる秀吉だった。
あの凄みは生じゃないともったいない。
レクイエムを経たララバイだった